信州小布施で七代・二百年 桜井甘精堂 |
小布施栗の起源にはいくつかの言い伝えがあるそうです。
まずひとつは、弘法大師空海が諸国を旅しているとき、
立ち寄った場所を小布施と名付けて、栗を三粒ほど蒔いて
それが増えたと言う説です。
しかし、全国には弘法大師がその土地の産業や
奇跡を起こしたという言い伝えが至るところにあり、
庶民の願いから生まれた物語かも知れません。
もう一つの説は、今からおよそ六百年前の室町時代、
当時、この地方の領主だった荻野常倫が故郷、丹波国から
栗をとりよせて植えたのが始まりだという説です。
この小布施の土壌が栗の育成に適していたため、
江戸時代にはすでにうっそうとした栗林が
広がっていたということです。
小布施栗は品質がよく美味ということで、
松代藩が毎年秋に将軍家に献上する習わしとなり、
その名が天下に広まり現在に至ります。
この栗を用いて初めて菓子を作ったのが
今日お邪魔した「 桜井甘精堂 」さんの
初代・桜井幾右衛門さんでした。
栗を粉にひいて作りあげたのが「 栗落雁 」。
文化5年(1808)のことでした。
この「 栗落雁 」の創製によって、二百年にわたる
伝統的な栗菓子づくりがスタートしたのです。
「 栗落雁 」誕生から遅れること十年。
文政2年(1819)には二代・武右衛門さんが
「 栗ようかん 」を創製しています。
江戸時代初期、小布施が松代藩の『 御林 』となり管理され始め、
収穫された栗を厳選して将軍家に献上していました。
そして「 栗落雁 」は加賀藩や松代藩の御用菓子となり、
江戸や京都に、その名を広めました。
当時は『 御林守 』と言う松城藩から任命された役職があり
なんと帯刀まで許され、『 御林守 』は松代藩の
厳しい掟に従い栗林の管理をしていたのだそうです。
その掟は栗の木をみだらに伐採の禁止や風倒木や
折れた枯れ木まで集めさせ告知を徹底していました。
小布施栗は将軍家への献上が終わらないと持ち出すことはおろか
栽培者ですら食べることができず、その後、栗林の一部は
幕府直轄の天領になるなど、栗は貴重な財産だったのです。
そんな貴重な栗を食べることが出来る幸せ。
口の中に秋が広がります。